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第七十五話 『きみの傘に入りたい』 ◆雪臣

last update publish date: 2026-11-02 20:37:25

 一月も三週目に入った。

 雪臣の風邪は治ったが、珠希との間に流れる空気は元に戻っていなかった。

 午前中、デザイン部に顔を出した際に見せてもらった新ブランドの図案には、石や形の選択肢が増えていた。珠希は、受け持っている業務の合間にデザインを考えているという。

 仕事の話なら、これまで通り目を合わせてくれる。雪臣も、以前と変わらず相談を重ねることができていた。

 けれど、ジュエリーの話が済めば、珠希はすぐに席を立ってしまう。その背中を、今日も呼び止められなかった。

 五階の窓から、どんよりと曇った空を眺める。何でもない顔をして社長室へ戻った。

+   +   +

 十七時すぎ。帰宅しようと瀬原と一階へ下りたところで、雪臣は足を止めた。

「あ……」

 ロビーに珠希がいた。これから帰るのか、自動ドアに向かって一人で歩いているところだった。

 少し遅れて、雪臣の隣で瀬原も「あ」と声を漏らした。雪臣と珠希の姿を交互に見たあと、彼女が腕時計へ目を落とす。

「あー。雪臣さん。申し訳あ
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  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   第七十五話 『きみの傘に入りたい』 ◆雪臣

     一月も三週目に入った。  雪臣の風邪は治ったが、珠希との間に流れる空気は元に戻っていなかった。  午前中、デザイン部に顔を出した際に見せてもらった新ブランドの図案には、石や形の選択肢が増えていた。珠希は、受け持っている業務の合間にデザインを考えているという。  仕事の話なら、これまで通り目を合わせてくれる。雪臣も、以前と変わらず相談を重ねることができていた。  けれど、ジュエリーの話が済めば、珠希はすぐに席を立ってしまう。その背中を、今日も呼び止められなかった。  五階の窓から、どんよりと曇った空を眺める。何でもない顔をして社長室へ戻った。 +   +   +  十七時すぎ。帰宅しようと瀬原と一階へ下りたところで、雪臣は足を止めた。 「あ……」  ロビーに珠希がいた。これから帰るのか、自動ドアに向かって一人で歩いているところだった。  少し遅れて、雪臣の隣で瀬原も「あ」と声を漏らした。雪臣と珠希の姿を交互に見たあと、彼女が腕時計へ目を落とす。 「あー。雪臣さん。申し訳ありません。やり残した仕事がありました。本日は、お帰りください。ご自分で」  ひどく平坦な声だった。  ついさっき、今日の業務の確認は済んだと言っていたはずなのに。 「おい……」  雪臣が問う前に、瀬原は踵を返していた。  ここ数日、仕事の話を終えた珠希が席を立つたびに、瀬原と目が合っていた。長く共に仕事をしてきた、勘の鋭い秘書だ。何も言わないだけで、二人の様子が変わったことには気づいていたらしい。  ……タクシーなら呼べる。ポケットのスマートフォンへ手を伸ばしかけ、やめた。  珠希が自動ドアを出る。雪臣も少し遅れて外へ出た。まるで、こそこそと後をつけているようだった。  小雨が降り始めていた。  社長室に傘を忘れたことに、今さら気づく。取りに戻れば、珠希は先に行ってしまう。ただでさえ、この足では追いつけないのに。遠ざかっていく彼女の背中を見ながら、ぱらぱらと降る雨の中を進んだ。  横断歩道の手前で、珠希の水色の水玉模様の傘が止まった。信号が赤になっている。このままでは、追いついてしまう。

  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   第七十四話 『好きな人の隣で少しでも、』 ◆雪臣

     鉛筆を置き、絵にカバーを掛けた。ベッドに横になっても、とても眠れそうにはなかった。けれど、風邪で体力が落ちていたせいか、次に目を開けたときには窓の外が薄暗くなっていた。時計を見ると、半日近く眠っていたらしい。朝に比べて、体の重さはだいぶ引いていた。  ――タマは、どうしているだろう……。  目が覚めたのだから、話しに行かなければ。そう思いながらも、ベッドの縁に座ったまま動けずにいた。何を謝るべきかは分かっている。ただ、彼女がどんな顔で自分の話を聞くのかと考えると、二の足を踏んでしまう。  そうこうしているうちに、気の抜けるような腹の音がした。……昼も食べていない。何か少し、口にできるものはないだろうか。珠希と顔を合わせる前に、三板から何かもらえないか。そんな情けないことまで考えていた。  自室のドアを少し開ける。隙間から覗いても、二階に三板の姿はなかった。階下からは、煮物の匂いが漂ってくる。三板が何か作っているのだろうか。  匂いに誘われるように、杖を手に階下へ下りた。台所には明かりがついていた。そちらへ顔を向けると、鍋の蓋を持った珠希と目が合った。 「あ……」  雪臣は足を止めた。珠希も、そのままこちらを見ていた。 「……具合は、平気?」 「……ああ。その、なにか、食べたい」 「じゃ、用意する。これ、肉じゃがだけど、大丈夫?」  雪臣が頷くと、珠希が鍋に蓋を戻した。台所に三板の姿はなかった。雪臣が周囲へ目を向けると、彼女が続けた。 「三板さんは、さっき本邸へ行ったの」  掃除と下準備を済ませた三板に代わり、あとは珠希が引き受けたという。雪臣が起きたら、食事がとれそうか聞こうと思っていたらしい。  ダイニングの椅子に腰を下ろすと、コンロの前で鍋の火加減を調整する珠希の姿が見えた。  ……何も言わずに食べて戻るわけにはいかない。膝の上で、右手を握った。 「タマ……今朝は、申し訳なかった」  珠希が振り返る。  謝ればすぐに理解してもらえるなどとは思っていない。珠希は何も返さず、こちらを見ていた。雪臣は握った手を緩め、頭を下げた。 「きみを傷つけた」  顔を上げると

  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   第七十三話 『未完成の絵描き』 ◆雪臣

     珠希がリビングへ戻ったあと、雪臣は昇降機に腰を下ろした。  左手の杖を持ち直し、右足の位置を整える。椅子がゆっくりと動き始めても、階段の前に立っていた珠希の顔は、頭から少しも離れなかった。  座ってしまえば、いつもと同じだった。これまでも、この椅子には何度も助けられている。風邪をひいているならなおさら、自力で階段を上るより楽なのは分かっていた。  ただ、好きな女性の前でどうしても座りたくなかった。  ――いい加減にしてくれ……!  自分の声を思い出す。あんな声を出すつもりではなかった。珠希を責めようなど、これっぽっちも思っていなかった。ただ、もうそこには触れないでほしくて、胸の痛みに耐えきれなかった。こちらを見たまま動かなくなった彼女に、『できることまで奪わないでほしい』とまで言った。  彼女は、雪臣から何かを奪おうとしたわけではない。きっと、今朝、温かい飲み物を差し出してくれたときと同じ気持ちだった。それなのに、あんな態度をとられて、彼女にはどう映っただろう。  嫌な思いをさせたに決まっている。  二階に着き、昇降機から立ち上がっても、すぐには足が進まなかった。  ――また我慢させてるのかなって、だから、怖かったの……。  珠希のあの言葉に、何も答えられなかった。  大きな声を出したことだけを謝り、それで終わりにしてしまった。彼女の頬に触れてしまったあの夜と同じだ。また、逃げたのだ。  自室に入り、扉を閉める。休むために上がってきたはずなのに、ベッドへ向かう気にはなれなかった。イーゼルの前で足を止め、掛けていたカバーを外した。  描きかけの珠希が、そこにいた。  椅子に腰を下ろし、杖を脇へ置く。イーゼルの隣の台から鉛筆を取り、まだ描き込んでいない服の袖に線を足した。手首の近くにできる布の皺を、一本ずつ重ねていく。  ……今朝も、珠希が隣にいてくれて嬉しかった。平日の夜は、帰宅しても長くは話せない。今日は何をしたのか。そんなことを聞いているうちに、もう休む時間になる。  でも今日は、一緒にいられると思っていた。  鉛筆が止まる。紙の中の珠希を見ていると、泣きそうな顔で膝掛けを胸元へ引き寄せた

  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   ◇11月連載のお知らせ

    ― 11月の連載予定日 ―(曜日)月・火・木・金・土・日 ●21時37分(日本時間)頃 ●各1話ずつ更新されます。水曜日はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。 花絵 ユウキ

  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   第七十二話 『喧嘩の理由』 ◆珠希

     休日の朝。雪臣が少し咳をしていた。 「雪臣くん、風邪かな」 「……少し、だるい」 「熱、測ってみる?」  体温計の数字は、三十七度を少し超えていた。朝食の量もいつもより少なく、食べ終えたあとも、彼はソファに背を預けたままだった。  三板が食材の買い出しに出かけると、珠希は台所で湯を沸かした。 「温かいの、飲めそう?」 「ああ。申し訳ない」  差し出した青いマグカップを、雪臣が両手で受け取る。いつもよりゆっくりと飲む彼を見ながら、珠希も隣に腰を下ろした。今日もニットの袖口から、左手のマリッジリングが覗いている。  珠希も自分のマグカップに両手を添えた。こんなふうに、何もせず一緒に過ごせるだけで、心地よいと思ってしまう。  けれど九月になれば、そんな時間も終わってしまうのだ。  だからこそ、今、雪臣の隣にいられるこの瞬間を大切にしたい。  今日は二人とも家にいる。平日のように、夜遅く帰ってきた彼とほんの少し顔を合わせるだけの日とは違う。具合が悪いのは心配だが、そばにいて、必要なものを用意するくらいはできる。 「何かあったら言って。今日はゆっくりしてようね」  雪臣はカップから顔を上げ、こくりと頷いた。それを見て、珠希は微笑んだ。昨日の洋食屋からの帰り道以来、また少し話しかけにくくなっていた。けれど今朝は、雪臣とときどき目が合った。  膝掛けを渡すと、雪臣はまた「申し訳ない」と言いながら、それを広げた。  雪臣のマグカップが空になれば受け取り、窓から日が差せば、眩しくないかと尋ねる。雪臣が咳をするたびに、珠希は読んでいた本から顔を上げた。 「タオルも、ここに置いておくね」 「……ああ」  彼の顔を覗き込む。視線が交わると、雪臣は何か言いかけたようだったが、そのまま黙ってタオルへ目を移した。まだつらいのだろうか……。もう少し早く、体調の変化に気づいてあげられたらよかった。  やがて、雪臣が膝掛けを畳んだ。 「もう、部屋で休む」 「うん。横になったほうがいいよ」  珠希は立ち上がり、膝掛けを受け取った。雪臣も杖をついて腰を上げる。彼が右足を踏

  • 氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―   第七十一話 『近づく夢、離れる心』 ◆珠希

     昼休みが近づいたころ、雪臣から連絡が来た。  ――仕事について少し話したい。昼、時間は取れるか。  珠希は画面を見つめた。昨夜、玄関で差し出した手を、彼は取らなかった。自分で家に上がれるのだから、手を借りる必要はなかったのだろう。そう思いながらも、引っ込めた指先の行き場がなかったことを覚えている。  このところ、二人の距離が少しずつ変わってきているような気がしてならなかった。二人は契約結婚で、雪臣に特別な気持ちがないことは理解している。それでも、婚姻届を出した日のことも、夜のソファで何気なく話す時間も、いつしか珠希にとって宝物のような記憶に変わっていった。  だからこそ、小さな変化が不安につながる。 「雪臣くん……」  けれど今日は、雪臣のほうから声をかけてくれた。返信しようとすると、もう一通届く。都合が悪ければ別の日でも構わない、とあった。珠希は慌てて『大丈夫』と返した。行き先は、以前二人で食事をした洋食屋に決まった。 +   +   +  店に入ると、ケチャップと炒めた玉ねぎの匂いがした。窓際の席へ向かい合って座る。雪臣はメニューを開いたまま、なかなか何も言わなかった。 「私、またナポリタンにしようかな。雪臣くんは?」 「……ああ。同じものを」  そういえば、前に来たときも、きっかけは雪臣が急にナポリタンを食べたいと言い出したからだ。思い出して笑うと、彼が顔を上げる。 「また一緒に来られて、良かった」  珠希の声は、後ろに流れるチャイコフスキーの花のワルツに溶けるように消えた。  そのとき、雪臣の唇がわずかに動いた。けれど声にはならず、やがて「ああ」と答えると、メニューへ視線を戻した。注文が済んでからも、雪臣はしばらくメニューを片づけず、ページをめくっては眺めていた。  珠希は水を一口だけ飲んだ。仕事の話だとわかっていても、忙しい彼が時間を作ってくれたことが嬉しかった。 「雪臣くん。それで、仕事の話って……」 「ああ。この前の手帳、持っているか」 「あ、うん。持ってるよ」  鞄から手帳を取って差し出すと、雪臣がようやくメニューを脇

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